Prof. Dr. Larry AdamsAcademic, Author & Researcher

誰にも理解されないとき

誰にも理解されないとき

孤独、拒絶、孤立、そして「本当に自分を理解してくれる人」を探す旅

「あなたを完全に知っておられる方がいる」――イエス・キリスト

著者:Prof. Dr. Lawrence M. F. Adams

著者から読者へ

人には、心の奥底に抱えながら、なかなか口に出せない言葉があります。

「誰も私のことを理解してくれない。」

その言葉は、ひとりで部屋に座っている若者の心から出てくるかもしれません。

一日の仕事を終え、疲れ果てて家に帰る会社員の言葉かもしれません。

外から見れば幸せそうな家庭を持ちながら、心の中では静かに傷ついている母親や父親の言葉かもしれません。

家の中が静まり返り、電話もほとんど鳴らなくなった高齢者の言葉かもしれません。

あるいは、社会から「成功している」と評価され、ほとんどすべてを手に入れたように見えるのに、なお心の中に埋めることのできない空虚さを感じている人の言葉かもしれません。

そして時には、その言葉は、大勢の人に囲まれている人の心から出てくることもあります。

孤独とは、いつも「ひとりでいること」を意味するわけではありません。

人に囲まれていても、自分が誰にも見られていない、理解されていないと感じることがあります。

この本は、そのような人のために書かれました。

特に日本の読者を念頭に置いていますが、ここで扱うテーマは国籍、言語、年齢、職業、収入、教育、社会的地位を越えた、人間共通の問題でもあります。

私たちは皆、知られたい、受け入れられたい、理解されたい、愛されたいという深い願いを持っています。

この本は、「すべての問題は前向きに考えれば解決する」と言うものではありません。

また、心の苦しみを「心が弱いからだ」と決めつけるものでもありません。

深刻な身体的・心理的問題がある場合、祈りや信仰だけで医療や専門的支援に代えるべきだ、と主張するものでもありません。

むしろ、この本では、より深い問いを考えます。

「人間が『完全に知られ、完全に愛されたい』と願うことは、神へと向かう心の深い必要を示しているのではないだろうか。」

そして、さらに問いかけます。

「もし、私たちを完全に知っておられる神が、本当にイエス・キリストという方を通して私たちのもとに来てくださったとしたら、どうだろうか。」

それが、この本の旅です。

目次

  1. 誰にも理解されないとき
  2. 誰にも見えない孤独
  3. 人に囲まれているのに孤独
  4. 拒絶と「自分は必要とされていない」という傷
  5. 私たちが身につける仮面
  6. 「大丈夫」と言い続けることに疲れたとき
  7. 人生の意味を探す
  8. 成功は心を満たすことができるのか
  9. 忘れられることへの恐れ
  10. 過去が自分を追いかけてくるとき
  11. 神についての問い
  12. 神は本当に私を見ておられるのか
  13. イエスとは誰なのか
  14. 孤独な人とイエス
  15. 拒絶された人とイエス
  16. 傷ついた心とイエス
  17. 「わたしのもとに来なさい」
  18. なぜイエスは死なれたのか
  19. 本当に赦されるのか
  20. 恵み――神の愛を得るために自分を証明する必要はない
  21. 復活と新しい命の希望
  22. それでも痛みが残るとき
  23. もう一度、人生の目的を見つける
  24. あなたは忘れられていない
  25. イエスに出会うための招き
  26. 応答の祈り
  27. 新しい始まり
  28. 結論――あなたを完全に知っておられる方
  29. 参考文献

第1章

誰にも理解されないとき

説明することが難しい、特別な痛みがあります。

それは必ずしも身体的な痛みではありません。

貧しさとは限りません。

失敗とも限りません。

それは、「誰も本当の自分を理解してくれない」と感じる痛みです。

あなたの周りには人がいるかもしれません。

同僚がいるでしょう。

学校の友人がいるでしょう。

家族がいるでしょう。

SNSでつながっている人もいるかもしれません。

あなたの名前を知っている人が何百人、何千人いるかもしれません。

しかし、名前を知っていることと、心を知っていることは同じではありません。

人は、あなたが何をしているかを知っていても、なぜそれをしているのかを知らないかもしれません。

あなたの成功を知っていても、あなたの失敗を知らないかもしれません。

あなたの笑顔を見ていても、その笑顔の背後にある涙を知らないかもしれません。

あなたの言葉を聞いていても、その言葉の背後にある沈黙を理解していないかもしれません。

これこそが、孤独の最も深い部分の一つです。

日本の内閣府が実施した2024年の「孤独・孤立の実態把握に関する全国調査」では、16歳以上を対象とした調査において、孤独感を「しばしばある・常にある」と回答した人が4.3%、「時々ある」が15.4%、「たまにある」が19.6%でした(内閣府, 2025)。

数字だけでは、一人ひとりの物語を語ることはできません。

統計は、誰かが寝室のドアを閉めたときに訪れる静けさを測ることはできません。

誰かとの口論の後に訪れる沈黙を説明することもできません。

職場に入る前に涙を拭う人の心を完全に捉えることもできません。

しかし、神は知っておられます。

聖書にはこうあります。

「主よ、あなたは私を探り、私を知っておられます。」

(詩篇139篇1節)

キリスト教のメッセージは、まず「神があなたを知っておられる」というところから始まります。

神はあなたを知っておられます。

世の中に見せているあなたも知っておられます。

そして、世の中から隠しているあなたも知っておられます。

そしてキリスト教が伝える驚くべきメッセージは、

神が私たちを完全に知っておられるからといって、私たちを見捨てるのではない

ということです。

むしろ神は、人間に近づいてくださいます。

そして、その神の愛と近さが最も完全に示されたのが、イエス・キリストです。

第2章

誰にも見えない孤独

孤独と社会的孤立は、互いに関連していますが、同じものではありません。

身体的に一人でいても、孤独を感じない人がいます。

一方で、常に人と接していても、深い孤独を経験する人がいます。

日本政府の全国調査でも、「孤独感」と「社会的孤立」は区別して考えられています(内閣府, 2025)。

この違いは重要です。

例えば、大学生が一日中クラスメートと一緒にいても、

「もし自分がいなくなっても、誰も気にしないだろう」

と思っているかもしれません。

毎日会議に出席している会社員が、自分の恐れについて誰にも話せないかもしれません。

一人暮らしの高齢者の電話が、ほとんど鳴らなくなっているかもしれません。

家族から遠く離れて暮らす人がいるかもしれません。

家族全員の世話を何年も続けてきた人が、「自分はどうしているのか」と誰にも尋ねてもらえないと感じているかもしれません。

孤独は、しばしば一つの問いから始まります。

「誰か、本当に私のことを気にかけてくれているのだろうか。」

キリスト教の答えは、

「はい。」

です。

しかし、キリスト教は単に「誰かがあなたを気にかけている」と言うだけではありません。

誰があなたを気にかけているのかを示します。

聖書にはこうあります。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

(ペテロの手紙第一5章7節)

あなたの問題が存在しないと言っているのではありません。

あなたの痛みが重要ではないと言っているのでもありません。

あなたの重荷を、あなたを本当に気にかけてくださる方の手に委ねることができる、と言っているのです。

第3章

人に囲まれているのに孤独

現代社会は、驚くほど多くのコミュニケーション手段を私たちに与えました。

世界の反対側にいる人へ、数秒でメッセージを送ることができます。

家を出なくても、オンライン上のコミュニティに参加できます。

何百人、何千人ともデジタル上でつながることができます。

しかし、コミュニケーションと親密な関係は同じではありません。

情報と心のつながりも同じではありません。

フォロワーが友人であるとは限りません。

「見られている」ことと、「受け入れられている」ことも同じではありません。

人間の心は、単なる接触だけを必要としているのではありません。

本当の関係を必要としています。

イエスはこのことを理解していました。

イエスが弟子たちを呼ばれたとき、単に情報を与えたのではありません。

関係へと招かれました。

イエスは言われました。

「わたしはあなたがたを友と呼びました。」

(ヨハネ15章15節)

「友」という言葉は重要です。

イエスは、ご自分を遠く離れた哲学的概念として提示されたのではありません。

イエスは近づいてこられます。

語りかけます。

耳を傾けます。

呼びます。

愛します。

そして招きます。

第4章

拒絶と「自分は必要とされていない」という傷

拒絶ほど深く人を傷つける経験は、ほとんどありません。

子どもが学校で仲間外れにされる。

若者が好きな人から拒絶される。

会社員が昇進できない。

大学への入学を断られる。

仕事に応募しても返事が来ない。

結婚生活が終わる。

友情が突然消える。

信頼していた人が、突然連絡をしてこなくなる。

すると心の中に問いが生まれます。

「自分の何が悪いのだろう。」

拒絶は、やがて自分自身のアイデンティティーになってしまうことがあります。

「誰かに拒絶された。」

という経験が、

「自分は拒絶されるような人間だ。」

という自己理解に変わってしまうのです。

しかし、この二つは同じではありません。

最初の言葉は経験について語っています。

二つ目の言葉は、自分自身を定義しています。

キリスト教は、そのような自己定義に疑問を投げかけます。

あなたの価値は、他人の判断だけによって決められるものではありません。

聖書は、人間が神のかたちに造られた存在であると教えています(創世記1章27節)。

あなたの価値は、学歴によって与えられるものではありません。

財産によって決まるものでもありません。

社会的地位によって決まるものでもありません。

誰かに拒絶されたからといって消えるものでもありません。

キリスト教の人間理解の基礎には、次の考えがあります。

あなたの価値は、人間の評価ではなく、神から始まる。

第5章

私たちが身につける仮面

多くの人は、幼い頃から「仮面」を身につけることを学びます。

成功しているように見せる仮面。

幸せそうに見せる仮面。

強い人に見せる仮面。

礼儀正しい人に見せる仮面。

仕事ができる人に見せる仮面。

「何も問題ありません」という仮面。

その仮面があまりにも身近になると、やがて私たちは、

仮面の自分と本当の自分の境界

を忘れてしまうことがあります。

「大丈夫です。」

と言います。

でも、本当は大丈夫ではありません。

「何も問題ありません。」

と言います。

でも、心の中は混乱しています。

「自分で何とかできます。」

と言います。

でも、もう疲れ切っています。

なぜ人は苦しみを隠すのでしょうか。

批判されるのが怖いからかもしれません。

他人に迷惑をかけたくないからかもしれません。

弱さを見せることが危険だと感じているからかもしれません。

社会が強さを評価し、弱さを隠すことを教えているからかもしれません。

しかし、神は私たちに「演技」を要求していません。

詩篇には、恐れ、悲しみ、怒り、混乱、希望が繰り返し記されています。

詩篇42篇には、

「わがたましいよ、なぜうなだれているのか。」

という問いがあります。

聖書は、神の前で正直になることを許しているのです。

祈りとは、演技ではありません。

本当の自分を神の前に持っていくことです。

第6章

「大丈夫」と言い続けることに疲れたとき

ある時、人は「仮面を維持すること」のほうが、「本当のことを認めること」より疲れるようになります。

もしかすると、あなたはその時に来ているのかもしれません。

長い間、強くあり続けてきたのかもしれません。

誰にも気づかれない責任を背負ってきたのかもしれません。

他人の世話ばかりして、自分自身のことを後回しにしてきたのかもしれません。

誰にも質問されたくなくて、笑顔を作ってきたのかもしれません。

イエスは、驚くべき招きを与えています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

(マタイ11章28節)

イエスは、

「自分を直してから来なさい」

とは言いません。

「完全な人間になってから来なさい」

とも言いません。

「問題がなくなってから来なさい」

とも言いません。

ただ、

「来なさい。」

と言われます。

この一言こそ、キリスト教の中心にある招きです。

第7章

人生の意味を探す

孤独の奥には、さらに深い問いが存在することがあります。

「私はなぜここにいるのだろう。」

この問いに答えなくても、生きていくことはできます。

しかし、「ただ生き延びること」と「目的を持って生きること」は同じではありません。

心理学者ヴィクトール・フランクルは、人間が人生の意味を求める深い欲求を持っていることを論じました。特に苦しみの中では、意味を見出すことが重要になると彼は考えました(Frankl, 2006)。

意味が必ず苦しみを取り除くわけではありません。

しかし、意味は苦しみをどう理解するかを変えることがあります。

ここで哲学的な問いが生まれます。

もし人間の存在が完全な偶然であり、最終的な意味を持たないのであれば、人生の目的は一時的に自分で作り出すものになるでしょう。

しかし、もし人間が創造者によって造られた存在であるなら、人生の目的は単に「作る」のではなく、「発見する」ものなのかもしれません。

キリスト教は神から始まります。

「初めに、神が天と地を創造した。」

(創世記1章1節)

人間の命には源があります。

そして、命に源があるならば、そこには目的もあるのではないでしょうか。

第8章

成功は心を満たすことができるのか

成功には価値があります。

教育は重要です。

仕事も重要です。

経済的な安定も重要です。

専門的な能力も重要です。

しかし、成功だけでは人間のすべての問いに答えることはできません。

昇進しても空虚さを感じることがあります。

美しい家を購入しても孤独かもしれません。

有名になっても、本当に愛されているのかと疑問に思うかもしれません。

財産を増やしながら、平安を失うこともあります。

イエスは問いかけました。

「人が全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」

(マルコ8章36節)

これは成功を否定する言葉ではありません。

人生における「優先順位」を問いかけているのです。

私たちは一生をかけて物を得ながら、自分自身がどのような人間になっているのかを忘れてしまうことがあります。

素晴らしい履歴書を作りながら、心の中を空っぽにしてしまうことがあります。

イエスは問いを変えます。

「あなたは何を達成したのか」

だけではなく、

「あなたはどのような人になっているのか。」

と。

第9章

忘れられることへの恐れ

人間には、消えてしまうことへの深い恐れがあります。

自分の人生が意味を持っていてほしい。

誰かに覚えていてほしい。

自分が存在したことに意味があってほしい。

特に高齢になると、こうした問いはより重要になることがあります。

日本では65歳以上の人口が2024年時点で人口全体の29.3%を占めています(内閣府, 2025)。

しかし、「忘れられることへの恐れ」は高齢者だけのものではありません。

若者にもあります。

「自分の人生には意味があるのだろうか。」

「もし自分がいなくなったら、誰か気づくだろうか。」

キリスト教はこう答えます。

神はあなたを知っておられる。

イエスは、人間の頭の髪の毛までも神が知っておられると語りました(マタイ10章30節)。

これは単なる知識の話ではありません。

親密な関係の話です。

あなたは神にとって見えない存在ではありません。

第10章

過去が自分を追いかけてくるとき

ある人は、自分に起こった出来事のために孤独になります。

別の人は、自分がしたことのために孤独になります。

過去の失敗は、恥を生み出します。

失敗した人間関係。

破ってしまった約束。

不正な決断。

依存。

裏切り。

道徳的な失敗。

秘密。

心の中で、過去が何度も再生されることがあります。

「もしあの時……。」

「なぜ私は……。」

「どうしてあんなことを……。」

罪悪感は、

「私は間違ったことをした」

と言います。

恥は、

「私は間違った存在だ」

と言うことがあります。

キリスト教は、この二つを区別します。

福音は罪を軽く扱いません。

しかし同時に、赦しを提供します。

聖書にはこうあります。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1章9節)

キリスト教における赦しとは、悪いことが起きなかったふりをすることではありません。

責任を否定することでもありません。

結果をすべて消してしまうことでもありません。

それは、神が与えてくださる和解への道です。

第11章

神についての問い

もしかすると、あなたはこれまで神について真剣に考えたことがないかもしれません。

あるいは、宗教的な文化の中で育ったけれど、個人的には信じたことがないかもしれません。

ずっと疑問を持っていたかもしれません。

時々祈ったことはあっても、

「本当に誰かが聞いているのだろうか」

と思ったかもしれません。

人間を超える何かが存在すると感じながら、それを何と呼べばよいのかわからないかもしれません。

こうした問いは尊重されるべきです。

キリスト教は、「質問してはいけない」と教える宗教ではありません。

聖書には多くの問いがあります。

人々は神に問いかけます。

苦しみます。

疑います。

探します。

そして考えます。

しかし、重要なのは、

「宗教は人を安心させるか」

という問いだけではありません。

さらに深い問いがあります。

「キリスト教は真実なのか。」

この問いには、歴史的、哲学的、道徳的、そして霊的な検討が必要です。

そしてキリスト教の中心に立っているのが、

イエス・キリスト

という人物です。

第12章

神は本当に私を見ておられるのか

聖書の中で最も美しい考えの一つは、

神は見ておられる

ということです。

ハガルという女性は、見捨てられ、弱い立場に置かれたとき、神との出会いを経験し、神を

「あなたはエル・ロイ」

つまり、

「私を見てくださる神」

と呼びました。

(創世記16章13節)

これは孤独について非常に力強いメッセージです。

誰にも気づかれない人を、神は見ておられます。

疲れ切った親を見ておられます。

孤独な学生を見ておられます。

高齢者を見ておられます。

働く人を見ておられます。

家族から遠く離れている人を見ておられます。

人知れず泣いている人を見ておられます。

希望を失っている人を見ておられます。

キリスト教は、

「神は人類を知っている」

だけではなく、

「神はあなたを知っている」

と語ります。

詩篇139篇は、このことを非常に強く表現しています。

神は私たちが座るときも、立つときも知っておられます。

私たちの思いを知っておられます。

私たちの言葉を知っておられます。

私たちがどこへ行くのかも知っておられます。

その知識は、人間の理解を超えています。

最初は恐ろしいと感じるかもしれません。

しかし、それは同時に深い慰めにもなります。

あなたのすべてを知っておられる神が、人間に近づいてくださった。

キリスト教はそう教えます。

第13章

イエスとは誰なのか

イエスを単なる人生訓の教師として理解することはできません。

単なる道徳家として理解することもできません。

単なる西洋文化の宗教的象徴として理解することもできません。

キリスト教の主張は、もっと大きなものです。

イエスはキリストです。

神の御子です。

神のことばです。

救い主です。

新約聖書は、イエスの誕生、働き、死、そして復活を中心に展開しています。

ヨハネによる福音書はこう述べています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」

(ヨハネ1章14節)

キリスト教は、神が遠く離れたままでいたのではない、と教えます。

神は近づいてくださった。

イエスは人間の歴史の中に来られました。

空腹を経験されました。

疲れを経験されました。

友情を経験されました。

悲しみを経験されました。

拒絶を経験されました。

身体的苦痛を経験されました。

死を経験されました。

だからこそ、クリスチャンは、イエスが孤独な人間を理解することができると信じています。

第14章

孤独な人とイエス

イエスが近づかれた人々を見てください。

病気の人。

貧しい人。

社会から排除された人。

罪人と呼ばれた人。

悲しんでいる人。

拒絶された人。

社会の周辺に置かれていた人々。

イエスは、こうした人々との間にある壁を越えて、人々に近づかれました。

ヨハネによる福音書4章には、イエスとサマリア人の女性との出会いが記されています。

その女性は社会的に弱い立場にあり、通常とは異なる時間に井戸へ来ていました。

しかしイエスは彼女を「見えない人」として扱いませんでした。

イエスは彼女に話しかけました。

彼女の人生に向き合いました。

そして一時的な水以上のものを提供されました。

イエスは「生ける水」について語りました(ヨハネ4章10節)。

キリスト教的に理解するなら、人間の最も深い渇きは、物質、地位、人間からの承認だけでは満たすことができません。

イエスは神との関係を提供されます。

第15章

拒絶された人とイエス

イエスは、一匹の羊を失った羊飼いのたとえを語りました。

百匹の羊を持っていた羊飼いが、そのうち一匹を失います。

そして、その一匹を探しに行きます。

(ルカ15章3–7節)

この物語は非常に深いことを伝えています。

一人の人間が大切なのです。

あなたは単なる統計上の数字ではありません。

単なる人口統計上の一人ではありません。

単なる社員番号ではありません。

学生番号だけの存在でもありません。

単なる社会的カテゴリーでもありません。

あなたは一人の人間です。

キリスト教は、神が一人ひとりを大切にしておられると教えます。

福音書は、私たちを何度も一人の人間との出会いへ連れていきます。

イエスは人を見ます。

耳を傾けます。

呼びます。

赦します。

回復させます。

第16章

傷ついた心とイエス

イエスは悲しみの世界に入ってこられました。

ラザロの墓の前に立たれたとき、聖書には短い一節があります。

「イエスは涙を流された。」

(ヨハネ11章35節)

これは重要な言葉です。

イエスは人間の苦しみの外側に立って、冷静に観察していたのではありません。

泣かれました。

キリスト教は、神が人間の苦しみに無関心だとは教えません。

しかし、その物語は涙で終わりません。

イエスはラザロを墓から呼び出されました。

そして、

「わたしは、よみがえりです。いのちです。」

と言われました。

(ヨハネ11章25節)

キリスト教の希望は、

「気持ちを前向きにしよう」

だけではありません。

それは、

「死は最後の言葉ではない」

という希望です。

第17章

「わたしのもとに来なさい」

人生には多くの「招き」があります。

学校へ来なさい。

仕事へ来なさい。

会議へ来なさい。

食事に来なさい。

参加してください。

買ってください。

しかしイエスの招きは、それらとは違います。

「わたしのもとに来なさい。」

(マタイ11章28節)

キリスト教は、一人の人物への招きから始まります。

単なる制度への招きではありません。

建物への招きでもありません。

教派への招きだけでもありません。

イエスへの招きです。

すべてを理解してから始める必要はありません。

一つの問いから始めることができます。

「イエス様、もしあなたが本当にクリスチャンが語っているような方なら、あなたを知ることができるようにしてください。」

これは正直な祈りです。

第18章

なぜイエスは死なれたのか

十字架はキリスト教の中心です。

なぜでしょうか。

それは、キリスト教が罪を真剣に考えているからです。

罪とは、単なる宗教的規則違反ではありません。

罪とは、人間が神から離れ、神と隣人を正しく愛することに失敗している状態を表します。

イエスは、最も重要な戒めを、

神を愛すること

そして

隣人を愛すること

だと教えられました。

(マタイ22章37–40節)

しかし人間は何度も失敗します。

人を傷つけます。

嘘をつきます。

憎みます。

利用します。

自分勝手になります。

妬みます。

裏切ります。

赦すことを拒みます。

時には、悪いことを悪いと知りながら行います。

聖書はこれを罪と呼びます。

しかしキリスト教は同時に、

神が人間との和解を望んでおられる

と教えます。

パウロは、

「神は、キリストによって、世をご自分と和解させました。」

と述べています。

(コリント人への手紙第二5章19節)

十字架は、罪の重大さと神の恵みの深さの両方を示しています。

第19章

本当に赦されるのか

もしかすると、これは他のすべての問いの奥にある問いなのかもしれません。

「神は私を赦してくださるのだろうか。」

他の誰かではありません。

私を。

キリスト教の答えは、

「はい。」

です。

しかし、赦しは安価なものではありません。

キリスト教は、

「罪は重要ではない」

とは言いません。

むしろ、

「罪は非常に重大だからこそ、キリストは罪人のためにご自身を与えられた」

と教えます。

ヨハネ3章16節は、キリスト教の中心的なメッセージを表しています。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」

神の福音は、基本的に愛のメッセージです。

感傷的な愛ではありません。

犠牲を伴う愛です。

ふさわしくない者に近づく愛。

和解を提供する愛。

悔い改めと新しい人生へ人を招く愛です。

第20章

恵み――神の愛を得るために自分を証明する必要はない

多くの人は、愛を「獲得しなければならないもの」として生きています。

成功しなければならない。

美しくなければならない。

役に立たなければならない。

お金を持たなければならない。

賢くなければならない。

人から評価されなければならない。

そうすれば、受け入れてもらえる。

しかしキリスト教には、非常に重要な言葉があります。

恵み。

恵みとは、神の救いが人間の功績によって購入できるものではない、ということです。

聖書にはこうあります。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」

(エペソ2章8節)

これは、人間の行動が重要ではないという意味ではありません。

キリスト教は、聖さ、真実、愛、慈しみ、正義を求めます。

しかし、それらは神の恵みを買うための「代金」ではありません。

恵みを受けた人が、その恵みに応答して生きるのです。

神に近づくために、まず完璧になる必要はありません。

神を必要としているからこそ、神に近づくのです。

第21章

復活と新しい命の希望

もしイエスが死んで、そのまま墓の中に留まったのであれば、キリスト教はまったく違うものになっていたでしょう。

キリスト教が宣言しているのは、

イエス・キリストが死からよみがえられた

ということです。

パウロは、

「しかし、今やキリストは、死者の中からよみがえられました。」

と宣言しています。

(コリント人への手紙第一15章20節)

復活はキリスト教信仰の中心です。

それは、死が最後の言葉ではないことを意味します。

イエスを単なる歴史上の死者として理解できないことを意味します。

そして、クリスチャンの希望がキリストという人物に根ざしていることを意味します。

感情的に「人生は終わった」と思っている人にとって、復活は非常に深いメッセージを持っています。

人間が終わりだと思う場所で、神は新しい命を与えることがおできになる。

これは、すべての状況が一夜にして変わるという約束ではありません。

しかし、

「物語はまだ終わっていない」

という希望です。

第22章

それでも痛みが残るとき

キリストのもとに来たからといって、すべての問題が一晩で消えるわけではありません。

クリスチャンも孤独を経験します。

悲しみます。

病気になります。

拒絶されます。

心が折れることもあります。

信仰を理由に、人の苦しみを責めてはいけません。

また、深刻な心理的症状を抱えている人に、

「もっと祈ればよい」

とだけ言うべきでもありません。

医療や心理的支援を必要とする人には、専門家の助けを求めることが重要です。

祈りと医療は、必ずしも互いに敵対するものではありません。

キリスト教的な癒しには、祈り、共同体、思いやり、そして適切な医療・専門的支援が含まれ得ます。

詩篇34篇18節には、

「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられる。」

とあります。

時には、神の答えが別の人間を通して来ることがあります。

医師。

カウンセラー。

牧師。

友人。

家族。

支援者。

地域社会。

だから、

助けを求めることは失敗ではありません。

第23章

もう一度、人生の目的を見つける

人生の目的は、必ずしも一つの巨大な使命である必要はありません。

目的は、小さな忠実さから始まることがあります。

一人の人を愛する。

誰かを助ける。

正直に働く。

家族を大切にする。

自分の能力を伸ばす。

地域社会に貢献する。

誰かを赦す。

学ぶ。

創造する。

教える。

励ます。

祈る。

与える。

聖書は、人間が「良い行いをするためにキリストにあって造られた」と教えています(エペソ2章10節)。

目的は、他者との関係の中で見えてくることがあります。

人生について、

「何を得られるだろう」

だけを考えるのではなく、

「私は何を与えられるだろう」

と問い始めるのです。

この変化は人生を大きく変えることがあります。

第24章

あなたは忘れられていない

この本から一つだけ覚えて帰ってほしい言葉があるとすれば、それは、

あなたは忘れられていない。

という言葉です。

あなたは忘れられたように感じるかもしれません。

拒絶されたかもしれません。

見捨てられたかもしれません。

裏切られたかもしれません。

愛する人を失ったかもしれません。

しかしキリスト教は、

あなたを完全に知っておられる方がいる

と語ります。

詩篇139篇は、神の知識について、

「その知識はあまりにも不思議で、私には及びもつきません。」

という趣旨を語っています。

クリスチャンが信じる神は、抽象的な概念ではありません。

神はイエス・キリストを通してご自身を現されたと、キリスト教は教えます。

そしてイエスは、

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

という約束を与えています。

(ヘブル13章5節)

これは、クリスチャンが二度と孤独を感じないという意味ではありません。

孤独が人間存在の最終的な定義にならなくてもよい、という意味です。

第25章

イエスに出会うための招き

この章まで読んでも、まだ質問があるかもしれません。

それでよいのです。

無理に納得する必要はありません。

自分で調べてください。

福音書を読んでください。

まずヨハネによる福音書から始めてもよいでしょう。

ゆっくり読んでください。

イエスが何を語っているのかを考えてください。

イエスが人々をどのように扱ったのかを見てください。

イエスの主張を考えてください。

十字架について考えてください。

復活について考えてください。

そして自分自身に問いかけてください。

「イエスとは誰なのか。」

そして、

「私にとってイエスとは誰なのか。」

と。

キリスト教信仰には、最終的に応答が求められます。

イエスは言われました。

「わたしについて来なさい。」

(マタイ4章19節)

イエスに従うとは、単に「イエスが存在した」と認めることではありません。

イエスを信頼することです。

イエスに向きを変えることです。

悔い改めることです。

恵みを受け取ることです。

イエスから学ぶことです。

イエスの弟子になることです。

第26章

応答の祈り

これまで一度もイエスに祈ったことがなくても、難しい言葉を使う必要はありません。

祈りは魔法ではありません。

祈りとは、神に語りかけることです。

もしあなたが本当にキリストを求めたいと思うなら、自分自身の言葉で祈ることができます。

例えば、次のように祈ることができます。

イエスに従い始めるための祈り

主イエスよ。

私は今、ありのままの自分であなたのもとに来ます。

あなたは私を完全に知っておられます。

私の喜びも、悲しみも、失敗も、恐れも、孤独も、誰にも話したことのないことも、あなたは知っておられます。

私はあなたから何も隠すことができません。

私は自分が間違ったことをしてきたことを認めます。

私は罪を犯したことを認め、赦しが必要であることを認めます。

私の罪を赦してください。

あなたがこの世に来られ、罪人のために死なれ、そして死からよみがえられたことを信じます。

私はあなたを信頼します。

私を赦し、私の心を変え、新しい生き方を教えてください。

孤独なとき、私を助けてください。

恐れているとき、私を助けてください。

人生で何が起こっているのか分からないとき、私を助けてください。

必要な助けを求める知恵と勇気を与えてください。

神を愛し、人を愛することを教えてください。

あなたの恵みを受け取り、新しい人生へ導いてください。

私はあなたを知りたいです。

私はあなたに従いたいです。

私を見捨てないでくださることを感謝します。

アーメン。